娯楽か芸術か…。映画ほどその存在価値を二極論で問われ続けているメディアもそうないと思われる。映画館に映画を観に行くノリは、美術館に絵画を観賞しに行くノリや、クラシック音楽を聴きに行くノリとは明らかに違う(ポップ・ミュージックのライブ鑑賞のノリに近い部分はあると思われるが)。未だに世間一般の映画に対する態度は、「娯楽」という視点からのアプローチが圧倒的だ。それが悪いとはいわない。だが映画の「芸術性」を過小評価しているのは問題だ。
映画を「芸術」という視点から評価する方法として、最も的確でありながら、最も一般になじみのない方法の一つが、「映画監督」で映画を「みる」行為である。よほどの有名監督(例えばスティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカス、日本人では北野武や宮崎駿など)でないと、ポスターのトップ、あるいは宣伝文句の初めに名前が来ることはない。しかしながら、ある一つの映画の「著作権」がある一人の人物に帰すると仮定したとき、最も適切なのは「映画監督」その人だ。総合芸術である映画というメディアの中で、俳優、脚本、撮影、音楽、衣装、舞台、特殊効果、etc.を指揮するマエストロは監督である(ここではあえて現代の、プロデューサー主導型及び完全分業型ハリウッド映画の監督については省略する。しかし、1960年代までのスタジオ主導型ハリウッド映画の監督には、雇われ監督らしからぬ個性が際立っていたのは事実であり、そこが現在と過去の「ハリウッド型映画監督」を分ける最たるものである。ちなみに、よく誤解されがちだが、ルーカスやスピルバーグはいわゆる「ハリウッド型映画監督」ではない。彼等はどちらかというと「巨大独立系映画監督」である)。
前書が長くなったが、この「カツドウシャシンヤ」で試みるテーマは、
- 映画を「映画監督」を中心に据え評価する。
- 私が現在所有する映画知識を共有する。
- 私の考えを文章におこすことによって、私自身が映画の意義を再確認する。
かなり個人的な、いわゆる「独断と偏見」による評論なので、時には文句をつけたくなることもあると思うが、単なる一個人の些細な意見と受け止めてもらいたい。
個人的評論だけに、基準はあくまで「私」になる。よってその基準である「私」の好みをある程度理解していないと、評論のもつ意義が半減されかねない。役に立つかどうかわからないが、ここに個人史的「外国語映画ベスト10」と「日本映画ベスト10」をあげ、第1回を終わりとしたい。
<中川的外国語映画ベスト10>
- 紅夢(チャン・イーモウ/中国=香港/1991)
- 旅芸人の記録(テオ・アンゲロプロス/ギリシャ/1975)
- 甘い生活(フェデリコ・フェリーニ/フランス=イタリア/1960)
- ベニスに死す(ルキノ・ヴィスコンティ/イタリア/1971)
- チャイナタウン(ロマン・ポランスキー/アメリカ/1974)
- M(フリッツ・ラング/ドイツ/1931)
- IP5 愛を探す旅人たち(ジャン=ジャック・ベネックス/フランス/1992)
- コックと泥棒、その妻と愛人(ピーター・グリーナウェイ/イギリス= フランス/1989)
- 時計じかけのオレンジ(スタンリー・クーブリック/イギリス/1971)
- マルホランド・ドライブ(デイビッド・リンチ/アメリカ=フランス/2001)
<中川的日本映画ベスト10>
- 近松物語(溝口健二/1954)
- 東京物語(小津安二郎/1953)
- 椿三十郎(黒澤明/1962)
- 切腹(小林正樹/1962)
- 貸間あり(川島雄三/1959)
- 赤い殺意(今村昌平/1964)
- ツィゴイネルワイゼン(鈴木清順/1980)
- 火宅の人(深作欣二/1986)
- HANA-BI(北野武/1997)
- クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲(原恵一/2001)
*順不同。作品群のバラエティを出すために1監督1作品とした。