第2回 北野映画にみる追加と省略

誰の批評から始めようと考えたとき、やはり自分がいちばん好きな監督から始めるのが妥当だと考え、北野武(1947~)を選んだ。同時に、北野武が現代の日本人に最もなじみのある(彼の作品を観たことがあるかは別として)映画監督の一人であるのも、この評論のスタートとしてふさわしい。

私が北野映画を初めて観たのは高校2年の正月。正月の深夜に放送される数多くの映画の中に、彼のデビュー作「その男、凶暴につき」(1989)があった。彼は、そのときまでにはすでに「HANA-BI」(1997)でヴェネチア映画祭の金獅子賞をとっていたのだが、私にとっては「映画監督」ではなく、単なる「コメディアン」でしかなかった。さらに、「日本映画なんてとるにたらない」と思っていたので、「その男、凶暴につき」には何も期待することはなく、単なる暇つぶしで観たのだが・・・。

目から鱗というのは正にこのこと。今まで観たことのない、全く新種の作品であった。何よりもまず私を驚かせたのは、刑事が犯人を追う、いわばこの手の刑事もの映画には在り来たりのシーンである。とにかく両者ともに走る走る。そして、急に疲れて歩き出す。この「疲れて歩き出す」という行為、実際の長々と続く追跡では絶対にあるはずのものが、今までの刑事ものでは完全に省略されていたのだ。理由は簡単に予想できる。「走る」ことで作られて来たリズムが、急に「歩く」ことによって崩されるからだ。何よりも観客の注意を引き付け、興奮を促す「走る」という行為を、わざわざ「歩く」という行為によって殺すことはない。それが従来の方法であり、事実、効果的であった。しかし、観客がそのシーンに慣れて来ているのを知ってか知らずか、北野武は登場人物を「歩かせる」ことによって、新たな、別種の興奮を供給したのである。

その後の北野映画を観ても明らかだが、「歩く」という行為が彼の映画の核をなしている。例えば、「ソナチネ」(1993)の海岸でのシーン。登場人物4人がほぼ等間隔で列をなし歩く様を、ロングショットでとらえる。この4人は他には何もしていない。ただ「歩く」だけである。しかし、ここに映画でしか表せない、見事な「詩」が存在し、奇妙な「時間の流れ」が存在している。北野自身、インタビューで、「おいらの映画から『歩く』シーンをとったら、1時間でおさまっちゃう。だから、劇場長編映画にするために、登場人物に延々『歩かせ』て、1時間の映画を無理やり1時間30分にのばしてるんだ」と述べたことがあるが、今となればこの「歩く」こと無しでは北野映画は存在し得ないものとなってしまっているように感じる。

ここまでは「既存の映画が省略してきた行為(『歩く』こと)を、北野映画は積極的に追加している」事実について述べたが、ここからは、もう一つの北野映画の既存映画製作法の反面教師的使用、「既存の映画が細部にいたるまで描いてきた事項を、北野映画は積極的に省略している」事実について述べようと思う。少し注意して聞けばわかることだが、映画の中で登場人物たちは、お互いにやたらと名前を呼び合っている。「よう、田中。昨日は楽しかったな、田中」「おう、加藤。それでさあ、加藤」・・・という具合にである。登場人物同士はお互いのことをもうよく知っているのに、なぜ名前をこうも呼び合うのか?それは、これが「登場人物たちに必要な会話」ではなく、「観客に必要な会話」であるからだ。観客にとっては未知の登場人物を、映画の作り手は執拗に説明している。しかし、北野映画には、この「観客に必要な会話」はほとんど存在しない。登場人物が名前で呼び合うことは、他の映画に比べて圧倒的に少ないのだ。彼等は単に「お前」、「あいつ」と他人を呼び、その会話は如何にも本物らしく響く。そこに、北野映画独自の「リアリズム」が存在するのだ。

「あの夏、いちばん静かな海。」(1991)という、北野映画初のラブ・ストーリーにもこの省略が多用される。主人公は聾唖のカップル。男のサーフィンをする姿を女がただ見つめ続ける、それだけの映画だ。ここでもこのカップルの家族の描写はいっさいない。障害者を描く映画にはなくてはならないと思われがちな、彼等をサポートする家族の描写を、バッサリ切り落としているのだ。この物語の核が他の誰でもない、このカップルであることを、北野自身がしっかり理解している結果でき得る、大胆な省略である。この「省略」する行為は映画監督にとってはかなり勇気のいることらしく、なかなかここまで潔い省略を他の作品では見られないのが現実だ。

このように、北野武は、既存の映画的常識をうまく利用し、独自の世界の構築を達成できている、貴重な存在であると思う。彼がこのような追加と省略をそこまで考えてやっているのかどうかはわからないが、とにかく、オリジナリティあふれるその才能には拍手を送りたい。ただ、彼ももう10作撮り終え、「北野映画内のパターン化」が目立ってきているのも事実で、これからどう観客をうまく裏切ってきてくれるのかも見物だ。その点を、新作「Dolls」(2002)に期待したい。

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