第5回 アンゲロプロスとギリシャ哲学・歴史

超有名監督が続いたので、マイナーな人を紹介したい(このコーナーには「映画監督普及」という目的もあるため)。ただ、マイナーといってもそれは世間的にで、映画界では知る人ぞ知る大巨匠である。その名もテオ・アンゲロプロス(1935~)、70年代、ギリシャ映画とは何たるかを世界に知らしめた男である。

ギリシャといえば、西洋文明発祥の地。ここから哲学、文学、美術、音楽、歴史、政治、etc.が始まり、そして今の世界があるといっても過言ではない(なぜなら、今日、世界はあまりにも西洋化の一途を辿っており、そのルーツを辿ればいやがおうなくギリシャに辿り着くであろうから)。しかし、同時に、今日の世界におけるギリシャの影響力を考えてみると、首をひねりたくなるほど微々たるものである。それは映画界においても然り。そこに警鐘を鳴らすが如く現れたのがアンゲロプロスだ。

技術的な面から述べると、彼の「旅芸人の記録」が公開された1975年、何よりも観客を驚かせ、批評家に新たな批評アプローチを強い、他の映画監督に模倣を促したのが、いわゆる「ワンシーン・ワンカット」だ。通常、映画でワンシーンを描くとき、その中には数カット(最近の傾向では数十、大袈裟にいえば数百カット)存在する。人物Aと人物Bとが会話しているシーンを想像してもらいたい。例えば、まずカメラは二人を横からロングショットでとらえ、次のカットではその様子がミドルショットになる。そしてAが喋ってるときはBからの目線で会話が進む様子が描かれ、Bが喋り始めるとAからの目線に変わる。これが延々会話シーンの間続くとなると、当然の如く数十カットの集まりがワンシーンを成すことになる。しかし、彼の作品では、概して 「ワンシーン・ワンカット」が使われる。例えば「旅芸人の記録」に、芸人たちが海岸で舞台を練習するシーンがある。そこに芸人一座とは関係ない人が干渉したりするのだが、一度もシーンはカットされることなく、同じ視線で延々と描かれる。様々な人物が一つの出来事にかわるがわる関わってくるのに、視線は常に一定。このような10分にも及ぶであろうワンカットがそのままワンシーンとなり、なんともいえない独特のリズムを生み出す。この「ワンシーン・ワンカット」が関係してか、アンゲロプロス映画は非常に長くなる傾向がある(「旅芸人の記録」は約4時間)。

しかし、その長丁場をだれることなく引っ張っていくのが、彼が映画に注ぐ「ギリシャ」精神だ。彼の映画は主にギリシャ哲学と歴史が入り乱れ、複雑にからみ合いながら話が進んでいくのだが、正直いって、難しすぎて何がいいたいのかわからない。それは根本的に余りの情報量の多さと、私の知識不足が災いしてなのだが、それでも彼の作品を楽しめるのは、「考える」行為を促す、むしろ強いるという言葉の方が適切かもしれないほど、映画が「何か」を絶えず語りかけているからだ。例えば、「アレクサンダー大王」(1980)では、近代に現れたアレクサンダー大王をかたる男(格好も大王そのもの)を通して、ギリシャ近代史とギリシャ古代史を同時に描き、受け手は二つの話を平行線上にとらえなければならない。だが、あくまで舞台は近代であるため、古代史の部分は暗示されるだけで、受け手が積極的に推察していかなければならない(それには当たり前の如く膨大な知識を要する)。それがこの「アレクサンダー大王」では3時間以上続き、観る側としては途中で疲れ果て、考えるのを止めてしまう。途中からはただ「みる」という行為のみが存在するのだ。しかし、映画というメディアは目で「みる」ということを大前提においているため、「考える」のを放棄した後に残る「みる」という行為のみでも、その映画は「映画」たり得ると思う。何がいいたいのかというと、「考える」ことを積極的に促しているように思われるアンゲロプロス映画は、実は、その「考える」行為を超えたときに唯一残る、映画の根本「みる」行為を結果的には促しているのではないかということだ。それが、ギリシャ哲学の中から彼が取り出し、映画というメディアに活用した、「『考える』を超えて『みる』に至るアンゲロプロス的映画哲学」であると、私は考えている。

哲学的映画を哲学的なアプローチで批評したため、何が何だかわからなくなった方もいると思うが、是非、テオ・アンゲロプロスという「映画詩人」に触れてみてもらいたい。ただ、彼の映画の哲学・歴史の融合はあまりに難しく、扱いにくいため、「旅芸人の記録」や「アレクサンダー大王」などよりも歴史知識を要さない、男女の性的愛情交流を描いた「蜂の旅人」(1986)や、老人と少年の短時間の交流を描いた「永遠と一日」(1998)などから入門することをお勧めする。

最初に「ギリシャ映画とは何たるか」をアンゲロプロスが示したと述べたが、ここで訂正する。アンゲロプロスが描くのは確かにギリシャであるが、彼の映画は「ギリシャ映画」という枠で括る以上に「アンゲロプロス映画」としてのアクが強く、それが彼が如何に唯一無二の存在であるかの証明なのだろう。

contact info