作品を重ねるごとに独特の持ち味が際立っていく監督もいれば、悲しいかな、そうでない監督もまた多く存在する。最近のその代表格といえるのが、イギリスCM・TV界出身のリドリー・スコット(1937~)だ。「デュエリストー決闘者ー」(1977)で劇映画デビューを飾った鬼才は、続く「エイリアン」 (1979)、「ブレードランナー」(1982)の2本の傑作で、SF映画の巨匠へと一気にのしあがる・・・のだが、あとが続かない。長きスランプのあと「グラディエーター」(2000)でアカデミー作品賞を獲得し、2001年には「ハンニバル」、「ブラックホーク・ダウン」の2作で高い評価を受け完全復活を遂げる・・・ように見えるのだが、近年のこの3作は、初期の作品とは比べ物にならないほどリドリー・スコットらしくない。何がこうも違うのか、そこに今回は焦点を絞りたい。
スコット作品を評価するにあたって、いちばん取り上げられるのが彼の映画の「ヴィジュアル」面での洗練された美しさだ。これは、如何に彼が映画は「目でみる」ものであることをよく理解しているかの表れであり、彼の「ヴィジュアル」的クオリティは未だ健在であると思う。「エイリアン」、「ブレードランナー」、「ハンニバル」に見られる、黒を基調としたクールな色使いは、まるでモノクロフィルムを観ているような静かな緊張感を生み、計算しつくされたライティングは、そのモノクロ的色調にさらに奥行きを与えるが如く対比を生む。正に名人芸である。しかし、最近は彼がこの「ヴィジュアル」 に気をとられ過ぎ、「ヴィジュアル」を映画の中で生かしきれていないのも、また事実である。
彼の初期作品からみてみよう。SFホラーというジャンルを確立した「エイリアン」で、彼は映画の話法としてそのヴィジュアルをいかんなく活用した。宇宙船内で起こるエイリアンによる殺戮は、黒を基調とし妙な圧迫感を生む船内の描写により緊迫感を増し、とことんエイリアン自体を隠し続けた彼の演出は、映画は如何に「みせない」ことでも成り立ち得るかを証明した(と同時に多額の経費節約も達成)。サイバーパンクという新語を生んだ「ブレードランナー」でも、近未来の街並を黒を基調にじっとりと描き、その重苦しさはそのまま登場人物たちの背負っている逃れられない悲劇的運命に投射される。簡潔にいえば、この2作品では、彼のヴィジュアル面でのこだわりが、そのまま作品自体がもつテーマ、あるいは登場人物の心理につながり、作品自体になんともいえぬ奥行きと重みを与えているのだ。
しかし、彼の近作では、ヴィジュアルが映画の話法として全く使われていないのだ。「グラディエーター」ではCGを駆使し古代ローマの景観を見事に再現しているが、それがローマを見せる以外に何をしているかというと、何もしていない。その証拠に、登場人物たちはやたらと喋り、そのことによってしか心理描写ができていない(「ブレードランナー」を観てもらえばわかるが、ここでは登場人物はあまりに語らない。だが、彼等の心理は「みて」推察できるのだ)。「ハンニバル」で描かれるヴィジュアルも、さもレクター博士が優雅で洗練された紳士であるかのようにハッタリをかますだけに留まり、奥に突っ込んでいかない。おまけにラストには如何にもおいしそうなごちそうを用意して、「これは変人を描いた単なるギャグ映画だったのか?」とつっこませる始末だ。とどめは「ブラックホーク・ダウン」における、「アメリカ万歳」主義のプロパガンダ。ここではヴィジュアル、テーマ、心理描写の相互関係などおかまいなしに、リアリズム描写に徹し、エセ戦場を作るだけだ。そして最後には「俺たちはなぜ戦場に行くのか?それは、そこに傷ついている友がいて、彼等を助けることこそ俺たちの使命だからだ」などと謳ってみせる。「それなら最初から戦場になど行かなければ、友も誰も傷つかないで、彼等を助け出す必要もなく済むんじゃないのか?」と問うのも、はなはだ馬鹿らしくなってくる。
不思議なことに、自分のひいきの監督の凋落ぶりを目の当たりにすると、彼が昔作った傑作のもつ意味も、自分の中で小さくなっていってしまう。今は「エイリアン」も「ブレードランナー」も昔ほど思い入れのある作品ではなくなってしまった(「ブレードランナー」に関しては、オリジナルの小説、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」を読んだことによっても、その価値が下げられた。ディックの描く世界は、スコットの描く世界より数等奥が深く、皮肉に満ちていて、そして悲しいのだ)。とにもかくにも、リドリー・スコットの才能は非常に買っているし、彼がこのようなところで終わる監督であって欲しくないのも事実だ。一度イギリスにでも帰ってみて、しっかりと頭を冷やし、ハリウッドの洗脳を解いてから、もう一度昔のような作品を発表してもらいたいものだ。