2001年カンヌ映画祭脚本賞、2002年ゴールデングローブ外国語映画賞、2002年アカデミー外国語映画賞等々、数々の映画賞を受賞した「ノー・マンズ・ランド」(2001)。これを脚本・監督したのがボスニア・ヘルツェゴビナ出身のダニス・タノヴィッチ(1969~)、当時32歳であった。処女作でありながら抜群の完成度を持つこの作品を観たときは、私も久々の期待できる新人監督の出現にいささか興奮した。
舞台は1993年のボスニア/セルビア中間地帯「ノー・マンズ・ランド(No Man's Land)」。ひょんなことからここに取り残された、ボスニア軍兵士チキとセルビア軍兵士ニノ、さらに気絶している間に体の下に地雷を埋め込まれてしまったボスニア軍兵士ツェラを中心に、両軍、国連軍、マスメディアの騒動を、ユーモラス且つアイロニカルに描く。
「戦争」は昔から映画の題材としては数多く取り上げられて来たもので、その傾向は未だに衰えることはない。古くは第一次世界大戦もの「西部戦線異常なし」(ルイス・マイルストン/米/1930)に始まり、ノルマンディー上陸作戦をオールスター・キャストで魅せる「史上最大の作戦」(ケン・アナキン他/米/1962)、ベトナム戦争もの「ディア・ハンター」(マイケル・チミノ/米/1978)、「地獄の黙示録」(フランシス・F・コッポラ/米/1979)、「プラトーン」(オリバー・ストーン/米/1986)、最近では「プライベート・ライアン」(スティーブン・スピルバーグ/米/1998)、「シン・レッド・ライン」(テレンス・マリック/米/1998)等々。各々戦争に対するアプローチは異なるが、上記の作品は全て、一般人が想像するであろう「戦場」を正面から描いている。全てアメリカ作品であることからも明らかだが、これらの作品は作品自体の意図とは別のところに(作品によっては同じところにも)いくぶん興行狙いがあり、それを達成するには我々の想像するいわゆる「戦場」というものを直接の舞台とし、スペクタクルを提供するのが通例であった。
しかし、「ノー・マンズ・ランド」でタノヴィッチは、我々の目に触れることの少ない「戦場の裏側」を用い、新たなスペクタクルを提供した。実際の、いわゆる戦場である中間地帯に残された3人を中心に話は進むのだが、彼等は単なる布石に過ぎず、戦場からは少し距離を置いたボスニア/セルビア両軍司令部、国連軍、マスメディアの行動を露にすることで、従来とは異なる角度から戦争を抉る。現場の意気とは裏腹に、いい加減に、ただただ惰性で戦争を続け、それを分かってはいるのだが終結する術を何も持ち得ぬ両軍司令部の無力。マニュアルに従った行動のみをとり、結局は何もできない(あるいはしない)で、ひとたび問題が持ち上がれば責任転嫁の応酬を繰り返す国連軍司令部と、それにうんざりして勝手な行動を繰り返す現場との間の落差。自分たちは戦場と大衆を結ぶメッセンジャーと謳っているにも関わらず、実際のところは戦争は単なるショーだと割り切っているかのようなマスメディアのエゴ。実際のボスニア紛争を追い、ドキュメンタリー作品を撮り上げた経歴を持つタノヴィッチによってアイロニカルに表現される舞台裏は、多大に誇張されてはいるものの、長々と続く戦争の根本を浮き出すことに成功しているがため、妙なリアリティを感じさせる。
さらに、タノヴィッチは細部に至るまでこだわりを見せ、映画の姿勢を最大限まで強調する。例えば、3人の残された塹壕を飛び回る、姿の見えない一匹の蠅。静寂の中にただ一つ響くその羽の音は、殺戮シーンを見せずとも戦場に漂う死臭を表現し、同時に3人の行く手に待ち受けるものを暗示する。タイトル「ノー・マンズ・ランド」自体も、戦争を「密にみる方法」、「俯瞰でみる方法」の二つを観客に促し、その対比によって戦争の無意味をより明確に実感できるよう配慮する。極めつけはボスニア軍兵士チキの着ている「ローリング・ストーンズ」のTシャツ。ここではそれが何を指しているのかは敢えて伏せておくが、1000年以上経った現在でさえも水面下で続く国家間の敵対心を、如何にも滑稽に、そして鋭く皮肉る。少しやり過ぎではないかと思われるほどの傲慢さに、新人監督らしい勢いを感じるとともに、その観察眼と表現法は出色の出来映えで、久々にスケールの大きな監督の誕生を予感させる。
ただ、不満がないかといえばそうでもない。ラストが少々弱いのだ。ユーモアと皮肉で引っ張り通せばよいものを、最後にヒューマニズムを注入し、綺麗にまとめようとし過ぎた。「ズバリやっちゃいました」感が1時間半続いたあとでのその綺麗ごとは、偽善的に映り、かえって鼻についてしまう。その点が、既存の戦争映画と一線を画するところまで一歩届かぬ要因となってしまっている。実際の戦場を体感してきたタノヴィッチが、この映画を通して、戦争から人間を救い得るヒューマニズムの価値を強調しようとしたのはよく分かるが、かといって、それを直接みせることにより表現する方法をとらなくてもよかったのではないだろうか?あえてテーマを隠すことで、それを強く伝えることもできるのだ。タイプの似た映画「フルメタル・ジャケット」(1987)のラストでスタンリー・クーブリックが用いたようなインパクトの強い皮肉を、上映途中からずっと期待していた私にとっては、その点のみが惜しまれる。
とはいえ、全体のまとまりもなかなか見事なもので、余計なものを省きスピーディーに進むその話法は、全くだらけることはない。近年稀にみる秀作であることには違いない。