第10回 アルチザンとしてのクーブリック

映画関係者、批評家、観客の三者から同様に非常に高い評価を受けている映画作家の一人に、スタンリー・クーブリック(1928~1999)がいる。ニューヨークに生まれ、チェスで生計を立てながらフリーカメラマン、自主映画製作とこなしてきた青年は、いつしかイギリスに渡り、世界でも有数の巨匠にのしあがる。完璧主義で知られ、時には100を超えるテイクを撮影する彼の作品からは、一目観ただけでそれとわかる「クーブリック色」がにじみ出ている。その独特の作品群はオリジナリティ溢れるものとして受け入れられているが、少しひねくれた視点から「クーブリックはオリジナリティ溢れる作家か否か?」を検証したい。

クーブリック評に入る前に、今回使っている「映画作家」という語について少し考えてみたい。「映画作家」という語は頻繁に映画評論家の間で使われ、広義的には「映画作家=映画監督」として受け止められる。第1回で述べた、「映画の著作権は映画監督に帰する」という論が、このことを説明できるだろう。しかし、多くの場合「映画作家」はもっと狭義的に使用される。この「狭義的映画作家」の定義は人それぞれなので絶対的な意味はないのだが、私がある監督を「映画作家」と呼ぶときは「監督自ら作品を企画・発案し、脚本を書いている」ことが絶対条件となる(第5回で私はテオ・アンゲロプロスを「映画詩人」と呼んでいるが、この「映画詩人」という語にはのちの回で触れようと思う)。

さて、そこで「クーブリック=映画作家」論について考えると、彼の長編映画13本の中で彼が企画・発案していないものは1960年作「スパルタカス」のみ、脚本を自ら書いていないのはデビュー作「恐怖と欲望」(1953)、「スパルタカス」、「ロリータ」(1962)の3本のみである(クーブリックは、諸事情により「恐怖と欲望」と「スパルタカス」を自作として認めていない)。このような事実からも彼を映画作家と呼ぶのは至極当然と考える。

しかし、「クーブリック=オリジナリティ溢れる映画作家」論については疑問符が浮かび上がる。なぜなら彼の長編映画13本は、全て「小説の映画化」であるからだ。有名どころを挙げてみると、ウラジミール・ナボコフ原作「ロリータ」、アーサー・C・クラーク原作「2001年宇宙の旅」(1968)、アンソニー・バージェス原作「時計じかけのオレンジ」(1971)、ウィリアム・サッカレー原作「バリー・リンドン」(1975)、スティーブン・キング原作「シャイニング」(1980)、アーサー・シュニッツラー原作「アイズ ワイド シャット」(1999)等々。錚々たる顔ぶれである。私自身、映画の存在意義に関しては、「映画はオリジナルの脚本をもとに作られるべきである」と常々考えている(例えば、小説は小説ですでに完成された作品であり、それをわざわざ映画化する意味には首を傾げたくなるし、また、実際の事件を映画化するにあたっても、映画化された時点で事実がある程度歪曲されてしまうのは否めないわけで、そうなればその事件の本来もち得る意義が半減されかねない。このようなことから、「映画はその映画のために書かれた、オリジナルの脚本をもとに作られるべきである」と考えるのだ。しかし映画界の実情はそうもいかず、小説・史実の映画化は頻繁に起こっており、その事実こそ映画が「独立した固有の芸術」としてなかなか認知されないことにつながっているように思われる)ので、クーブリック作品の突出したすばらしさを認めていながらも、彼を「オリジナリティ溢れる作家」と呼ぶには少々はばかられるのだ。

ただ、彼の作品には「もとの小説より優れている」という特徴があるのも事実だ。彼が映画化した小説全てを読んでいるわけではないので、勿論、全ての作品にこの考えを当てはめる気はないが、少なくとも私が読んだ「時計じかけのオレンジ」と「シャイニング」については自信をもって適用しようと思う。例えば、「時計じかけのオレンジ」では、主人公アレックスが警官たちから暴行を受け民家に逃げ込むくだりから、小説と映画ではかなり描写が変わってくる。実はこのアレックスが逃げ込んだ民家は、彼と仲間たちが昔襲撃し、奥さんを主人の目の前でレイプし殺害した場所なのだが、今回アレックスは彼を犯人だと気づいていない主人にもてなされることになる(勿論、主人はのちにその事実に気づくのだが)。小説では政治活動家でもあるこの家の主人がアレックスを利用して現政権打倒を目指す様が描かれるのだが、映画ではそのようなイデオロギーは表面的な部分からバッサリ切り落とされ、ただただ主人の個人的な復習劇が描かれる。しかしこの作品の「暴力を通して共産主義(あるいは資本主義も?)を皮肉る」というテーマをしっかりと理解しているクーブリックは、原作でバージェスが直接的に描いた政治イデオロギーを、個人の暴力の陰に隠すことによって暗喩的に、より効果的にテーマに沿って(「暴力を通して」)示しているのだ(実際に「時計じかけのオレンジ」を観ていただければ、ここで述べている効果的暗喩がよく分かると思う)。

上記の事実から、私はクーブリックを原作をそれ以上のものに変えてしまう「映画作家」であり「アルチザン(職人監督)」だと考えている。彼の作品のもとは彼自身のオリジナリティから生じたものではないが、彼には既存の題材を見事な別個のものとして作り直す、いわば職人的な気質と才能があったのではないだろうか。彼が技術的実験(例えば「時計じかけのオレンジ」での魚眼レンズの使用、「バリー・リンドン」でのNASA開発高性能レンズによる人工照明なしの撮影、「シャイニング」でのステディカムによるブレのない移動撮影など)を作品内で頻繁に試みたこと、そのような技術的試みが映画の話法として効果的であること、またそれが多方面から高く評価されていることも、「クーブリック=アルチザン」論を裏付けるのに適切だと考えるのだ。

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