2003年2月23日(日曜日)

現在、後ろめたい気持ちゼロで思う存分読書を楽しんでいる毎日であります。本日から読み始めた『やがて哀しき外国語』(村上春樹)はなかなか面白いので、『金の無駄にならずに済みそうだ。安堵』と言いたい。意外な事に、最近は小説から疎遠になって専ら随筆や紀行文なんかを読みあさってる。それが案外イケテルのである。

例えば、夏目漱石大先生の『私の個人主義』なんか益田の興味をそそりまくりました。“漱石”と言えば、『坊ちゃん』とか『三四郎』『こころ』とか、もっとシックに『虞美人草』とかを想像する人もいるかな・・・とのかく作家・夏目漱石的な作品ばかりを益田も読んでいた訳です。でもこの『私の個人主義』は漱石の大学での講義や講演会での彼・夏目金之助の言葉であり、作品として楽しむのではなく、益田は自伝的な要素を持った金之助自己主張論文として読んだ。

話は戻り、春樹君の『やがて哀しき外国語』は彼がプリンストン大学院時代に経験した、もしくは考えた事を手当たり次第書き連ねている間のかなりあいた日記チックな書き物です。だから気楽に読めて一気に200ページ読んでも頭がちゃーんとついて来る。益田がビビッと来た言葉はこれです。

『梅干弁当持ち込み禁止』と『スノビズム』

ここからの話は益田のチョー個人的な見解であって、全てに当てはまる訳ではないのでダメ出しとかあんまりしないでクレ~ン。しかも小汚い文で分かりにくいが、勘弁しろ。


前者は反日のアメリカ人が車に日の丸国旗に右から左端に斜線を引いたものを貼っていたのを見た春樹君の感想。(当時は貿易摩擦。アメリカ不況の真っ只中)アメリカ人お手製の日の丸は些か赤丸が小さすぎて、彼には梅干に見えて仕方が無かったらしい。=やはりアメリカ人は経済大国日本の事を嫌いと言いつつ、日本の諸知識はないんだな~。&それを“梅干弁当”と表現する春樹君(直筆のイラスト図A/Bまであった。)にはお茶目な所があるのね。なんか親近感が湧いてしまった・・・。とのかく、内にコモルアメリカ人は何気に個人主義でも自由主義でもなくただのワガママ自己満足軍団で、たまに平和の鳩をセントラルパークとかで飛ばしているだけなんじゃないの?とイチャモンつけたくなったね。それとも盛大に掲げたアメリカの理想に近づけなくてジレンマに自暴自棄になってるのか?でも、じゃぱんも自暴自棄になっているのは同じだけどね。今ここで述べるとこんがらがるので辞めておくぞい。

ここからが本題。
そして後者“スノビズム”ですが、なるほど日本のそれとは少し種類が違うのね。アメリカ版は『プリンストン・MIT・ハーバードコミュニティーを守るため』の“お高さ”であって、アイビーリーグ独特のヒエラキーと知的さをアピールする生活様式(ビールは外国産で新聞はNYタイムズ。茶系のジャケットに多分緑の毛糸のチョッキとか着たりするんだろう)に従うことで、他の州立大もしくは短大もしくは社会全体とは異質の“スノッブ村”を作り上げている。でないと大衆化してしまうし、理論的に考えても流動性の高いカオスでできた外の村と連携するなんてナンセンス。スノッブ村ならどうすれば自分が認められてすんなり人生を楽しめるかはっきりしているものね。だって、古き習慣に従えばイイだけだもの!!

それに代わって日本での“スノッブ”は“俺は?俺は?主義”というべきものかな。取り分け日本は数が好きである。何かと点数化したがる。偏差値なんかその代表例である。旺文社の標準国語辞典によると【基準となる一定の値からの偏りの度合い。その人の学力や知能が、全体の中でどの程度に水準にあるかを示す値。】そうです。『自分の位置』=全体での位置を個体で求めるのが日本の“スノビズム”の根底です。隣の席の奴より私は頭がいいのか?もしくは都内で何番か?とか自分の知的位置=自分の存在価値と取り違える傾向大。しかしね、そういう社会構造なので必然的にそうなるのだよ・・・・。

現に益田も確かに偏差値を知ろうと奔走した記憶が。私大の模試は益田が『大学に行かなくて何をしよう???やはり勉強しないとアホになるわ』と思った頃には全て終了だったので、どこら辺の大学ならば検定料を無駄にせずに済むかが分からず、仕方なく適当な大学の過去問を解き得点と合格最低点を見比べて適当に見極め。(かなりアバウト)大体の自分の位置が分かったが、合格した今はもっと詳しく見極めたくなった。書店で調べた所、全国大学受験案内によれば立命館の偏差値60で青山は61であった。益田の知能指数の方はどうせ大幅に見栄を張っても90であろう。益田の中学時代の評定は覚えてはいないが4と3が多くを占めていて、高校時代は4.2(確か)でA~D評価で言えばBランクである。もちろんその高校は都立の中堅高なので大した事はない。事実、3ヶ月間(数学80%・漢字10%・英語10%)ほど勉強しただけで合格できる位のものである。NIC時代もプレカリをギブしてその後はハッタリで生き抜いた。しかし、昔よりかは頭はマシになって来ていると思われる。

そう考えると果たして益田の知的位置(学歴)が益田の存在価値として社会で見られる時に、その将来性も考慮してくれるのか?と言う疑問が出て来る。どう考えても高校よりか今の方が学力は高くなった。高校時代の偏差値なんて55もあったのか疑問である。少なくとも昨日よりかは知的に進歩していると益田は信じているし、そうじゃなきゃなんで『学問する』と言う言葉があるのか意味不明。頭のいい天才肌の人だって、毎日上を目指して向上していくではないか!あのアイン・シュタインが5歳で相対性理論を完成させたなんて誰が信じる?それなのに今現在の結果で判断されるのは益田としては少し不条理な気がする。が、また社会構造が・・・・。

話を元に戻し、“日本スノビズム”は決して個人主義ではない。(そもそも益田は個人主義の存在自体を疑いだしているのだが。その事についてはまた今度)全体主義の表れの一つではないでしょうか。個の価値を明確にしたがるのはそれ自体全体主義的な感覚だからです。もし本当に個人主義なら自分が何処に位置しているか、社会での実存の確立を求めるわけが無い。そんなものは彼らには何の意味も無い事です。個人主義の唱える事は絶対的な自己であり相対的な自己ではないからです。“日本スノビズム”の中身は近代化に伴う西洋憧れの名残。特に日本の場合はそれが顕著に表れていると思う。

日本の近代化は単に当時の先進国の模倣ではなかったと益田は理解している。
日本なりに先進文化を取り入れ脚色して独特のもしくは異色の島国文化を作った。食文化・言語・服飾・思想・社会システムも現在では当時の先進国、例えば現在のドイツ、と比べても異なるのはそのためだ。かの漱石大先生も『日本の近代化の真の髄はマントを羽織ってハイカラと名乗る事ではなく(西洋化ではなく)、近代化に必要な核とした根底の精神を学ぶ事である。』と述べている。益田が感じるのは日本はその変革の過程でどうやらこの『根底の精神』に『憧れ』を含めすぎたようですね。西洋への憧れは自国の近代化の遅れが呼び起こした世界での日本の負い目、な訳ですが・・・・これはどう考えても劣等感の塊です。日本はその劣等感まがいの憧れまでも近代化と一緒に日本文化に定着させてしまった訳です。今となってはトテモ日本らしい感覚なのですが。日本の相対的な個の位置を明確にしたがる感覚も近代化が始まり一国として世界での位置を見て劣等感を感じだ時点で、すでに発生していたんだと思います。

つまりは、近代化の精神的な活力となった『劣等感まがいの西洋憧れ』と現代の『日本スノビズム』は“相対的自己評価”で成り立っているのである。簡単にいえばマラソンレースで置いてきぼりを食わない様に順位をあらかじめ確認しておく事ため的な利用ですかね。

また、知的階級保護法的なアメリカのスノビズムに比べてなんだか日本のスノビズムにはガッシリ感が無いと言うか、目的意識がハッキリしてないと言いますか。なんせ自国の発展の精神には『劣等感まがいの西洋憧れ』やら『相対的価値』やらがうごめいていて、明確な日本像を追い求めるのではなく、不安気に世界に取り残されないように何かしなくては!という焦りが蔓延している。やはり漱石大先生、日本はまだまだ揺ぎ無い近代化の真髄を手に入れてはいない様です。もっと精進せねば・・・益田さん、あなたもですよby春樹・・・。


と、そんな事を本を読みながら考えていた訳です、あっぱれ。やはり春樹君は面白い。

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